島郷八十八ヶ所って
島郷四国八十八ヶ所は、福岡県芦屋町山鹿の一番札所をスタートに、若松半島の西側半分を中心として設けられています。
 八十八ヶ所巡りの道中は、海辺、山の中、広大な貯水池のほとり、なだらかな丘陵地帯、田園や農家の庭先、寺院の一隅など、野趣、変化に富み、脇の浦漁港に在る鯖大師や、千二百五十年前、僧行基が開山した大伽藍、山鹿観音金剛寺が盛衰の末、小さな御堂を残すだけの来歴、三百数十基の石塔・石仏が偶然発見され、その由来に二説あるも今なお不明の洞山地蔵など、歴史の重みを感じさせる遺跡、遺物や、山海の豊かな自然に溢れています。 
 火野葦平で有名な高塔山河童地蔵は、葦平の墓のある安養寺の飛び地境内です。行路は難所などなく、普通の体力で充分です。
白衣、御詠歌にこだわらず、心を満たし、あるいは癒し、心身の健康の為に御活用くださいますようご案内申し上げます。

島郷四国霊場八十八ヶ所とは(「島郷四国霊場開祖碑文」より抜粋)
 島郷四国霊場の長い歴史は、慶長七年(1602年)に蜑住村(現在の若松区蜑住)の郷士が、 祖先の菩提を弔うため、子に命じて四国の八十八ヶ所の霊場を巡拝させて集めた聖土を島郷の八十八ヶ所に移したことに始まります。
 その後、寛延元年(1748年)に小竹(現在の若松区小竹)の元庄屋 香山彌次郎重治が更に四国から霊地の土砂を持ち帰り、地形・距離・年月等を勘案して八十八ヵ所の位置を定め、番札と御詠歌を掲げて開基したことにより広く一般の信仰を集めることとなり、現在に至っています。
 最盛期であった明治の頃には、春秋二季の大詣りの際には千数百人が、北九州近郊はもとより他県からも巡拝に訪れていましたが、現在では数十名の方々が巡拝を続けています。
付記
島郷八十八箇所
1203年、源頼家から原田氏が秋月を任され、秀吉が天下統一する以前〔戦国時代〕、秋月領で原田氏は有力な一族であった。

秋月種冬 〔    〜1614〕
秋月種方(文種)の男。晴種、種実の弟。
高橋鑑種の養子となり豊前小倉城に入る。

1602年大庭源馬代その祖秋月藩主原田家菩提の為、三男三太夫に命じて四国霊場の土を持ち帰り、年月をかけて島郷霊場を開く。

1732年〔享保17年〕 西日本を襲った蝗による被害で飢饉となる。大凶作は西日本だけであったが米価の高騰を避けるため米の移動は抑えられた。

1748年〔寛延元年〕庄屋香山彌次郎重治は村民の罪を一身に背負い刑に処せられた庄屋平安某の追善功徳のため島郷八十八箇所を更に充実させた。これにより島郷八十八箇所は二度の開基を持つこととなる。


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